2020年5月7日木曜日

宗教学の文献紹介(文庫・新書限定)

宗教学の文献紹介

これまで、いくつかの大学で一般教養科目として宗教学の講義を担当するなかで、受講生たちから学んだことのひとつは、「なぜ宗教を学ぶのか」という問題に対して、つねに自覚的でなければならないことである。他分野を専攻する学生、宗教を教養として学びたいと思っている学生、そしてこれから本格的に宗教を学ぼうという意志を持つ学生には、宗教についての学びを広く開いていき、自分自身の知的関心になんらかのかたちでつなげていってほしいと願っている。そのためにまず重要なことは、自分が暮らしている社会が宗教に対してどんなイメージおよび理解を持っているのかを自覚しておくことであると思う。この紹介では、自分の講義の主たるテーマとして取り上げてきた一神教世界を理解するための豊かな知見を提供してくれる文献と、現代において宗教と向きあう自覚をうながしてくれる文献を取り上げてみたい。

① 小原克博『一神教とは何か』平凡社新書、2018年
 国内の一神教文化研究を主導する同志社大学のCISMOR(一神教学際研究センター)に従事してきた著者による一神教の概説書。日本では一神教が得体の知れないものとして、しばしば単純化されたレッテルを貼られてきたことに対する問題意識が最初に示されている。自分の勝手なイメージを他者に投影する偏見には、深刻な暴力性が潜んでいる。一神教を学ぶことには、そうした社会的な、あるいは自分自身が無意識のうちに持っている偏見と闘う作法を養うことも含まれるのである。なお、CISMORによる一神教研究については、刊行物や講演動画など、公式のウェブサイトで幅広く公開されている。
http://www.cismor.jp/jp/

② 藤原聖子『教科書の中の宗教』岩波新書、2011年
藤原聖子『世界の教科書でよむ〈宗教〉』ちくまプリマー新書、2011年
 東京大学の宗教学研究室にて教鞭をとる著者が、日本の公立学校における宗教教育の根深い問題を指摘した書籍(前者)。異文化理解・多文化共生のために宗教を学ぶことの重要性は、これまで国連で何度も表明されてきたが、日本の小中高ではなかなかそれが浸透せず、著者自身も教科書の作成においてさまざまな障壁や苦労に直面してきたことが記されている。私の担当講義で学生たちの声を実際に聞いてみても、宗教について本格的に学ぶ機会は、大学に入って宗教学の講義を取ったのが初めてであったという意見が非常に多く、本書で指摘されている課題を私も実感している。「○○教は愛の宗教」というような紋切り型の説明に終始せず、身近な場面から諸宗教の価値観や考え方を学び、学生たちがそれぞれ自分の意見を持ち、議論をするという教育の場を作っていくために、私もなんらかのかたちで貢献していきたい。なお、欧米やアジア、イスラーム圏など、海外のさまざまな教科書における宗教についての記述を紹介した後者も興味深い。

③ 青木健『古代オリエントの宗教』講談社現代新書、2012年
 ゾロアスター教研究の世界的な権威である著者による、古代世界の比較宗教史。さまざまな宗教が、かならずしも個々の境界線が明確でない仕方で生きていた世界を、「聖書ストーリー」の受容という視座のもとでとらえ、その歴史的展開を壮大なスケールで描いている。ユダヤ教、キリスト教、イスラームという三つの一神教は、「アブラハム宗教」(Abrahamic religions)という用語で括られることもあるが、このアブラハム宗教の歴史と展開についての研究は、まだ日本ではほとんどおこなわれていない。古代から中世初期における中東の多様な宗教世界という文脈のなかで、巨大な一神教世界がどのように出現してきたのかを考えるとき、本書が刺激的な知見を与えてくれる。

④ 市川裕『ユダヤ人とユダヤ教』岩波新書、2019年
 東京大学の宗教学研究室で長く教鞭をとってきた、日本のユダヤ教研究の第一人者によるユダヤ教論。歴史、信仰、学問、社会という4章の構成で、狭い意味での「宗教」に限定されない「生き方そのもの」としてのユダヤ教を縦横に論じている。現在は残っていない長崎のユダヤ教礼拝所(シナゴーグ)を訪れた斎藤茂吉が、ユダヤ新年のお祝いのために集まってきた当時のユダヤ人たちの礼拝を見て詠んだ歌など、ユニークなエピソードもちりばめられている。末部には日本の読者のための詳細な文献紹介もついている。

⑤ 菊地達也編『図説 イスラム教の歴史』河出書房新社、2017年
井筒俊彦『イスラーム文化』岩波文庫、1991年
 ユダヤ教、キリスト教、イスラームという三つの一神教のなかで、日本の読者向けに入門書を書くことの意義について最も自覚的なのはイスラーム研究者であると思う。井筒の入門書(後者)はまさにその嚆矢といえるが、近年の概説書で最も推薦したい書籍のひとつが、本校のイスラム研究室で教鞭をとる著者の編集による前者である。豊富な写真と図により、イスラームの歴史と現在が多角的に紹介されており、その豊かな宗教文化を楽しんで読むことができる。また、イスラームを知ることについて、「他者」表象の観点から比較するのも面白い。現代日本のイスラーム理解(小村明子『日本のイスラーム』朝日新聞出版、2019年)と、中世西方キリスト教世界のイスラーム理解(R.W.サザン(鈴木利章訳)『ヨーロッパとイスラーム世界』ちくま学芸文庫、2020年)を比べると、それぞれの時代や地域の価値観が「イスラーム」という他者に投影されており、結果としてまったく異なるイスラーム像が描き出されていることに気づくだろう。


⑥ 伊藤邦武ほか編『世界哲学史』(全8巻)ちくま新書、2020年
 筑摩書房による2020年の興味深いシリーズ。「世界哲学」をコンセプトとし、西洋の哲学を「哲学」と呼び、その他の哲学を「○○哲学」と呼ぶ、西洋中心的な視座を根本から揺るがすことをその目的としている。世界哲学を冠する近年のシンポジウムでは、日本や中国の思想研究者、芸術の研究者など、幅広い分野の研究者たちによる議論をおこない、さまざまな知見を市民社会と共有する試みがみられるが、そのなかで宗教学のはたす役割も小さくはなく、本シリーズにおいても宗教学の研究者が積極的にかかわっている。世界哲学はまだ黎明期にあり、その未来を見通すことは到底できないが、宗教学およびユダヤ教研究に携わる者として、これからも提言を試みていきたい。

⑦ オットー(久松英二訳)『聖なるもの』、岩波文庫、2010年
 20世紀前半には、後の宗教学の「古典」となる著作がいくつも書かれたが、ルードルフ・オットーの『聖なるもの』もそのひとつである。オットーは、宗教には本質的な根源としての「聖なるもの」が存在すると考え、その特徴をあらわすために「ヌミノーゼ」という語を創り出した。「ヌミノーゼ」を体験する人は、「戦慄すべき畏怖」の感情にとらわれるが、同時にその聖なるものに「魅せられる」というのである。言語化することのできない「ヌミノーゼ」を、オットーはそれでも言葉を尽くして説明を試みる。宗教学の講義ではそのイメージを持ってもらうために、さしあたり「怖いもの見たさ」という表現から始めているが、はたしてどこまで「ヌミノーゼ」に迫っているのか。それを吟味するには、やはりこの古典を注意深く読みなおす必要があるだろう。

⑧ スピノザ(畠中尚志訳)『神学・政治論』岩波文庫、1944年
 ヘブライ語聖書(旧約聖書)はユダヤ教とキリスト教の教典として、日々の宗教実践から哲学・神秘主義の宗教思想まで、あらゆる営みの源泉であり続けてきた。17世紀のユダヤ人思想家スピノザは、こうした宗教伝統における聖書解釈が、聖書テクストの真理をそのテクストの外に置き、その真理の視座において聖書を読むことであったと批判し、テクストの真理はその中にあると主張して、あらゆる宗教的権威から聖書を解放し、自由に読むことの必要を訴えた。宗教伝統を意識的に対象化し、自分自身と距離を取って、それを批判的に検討するというスピノザの『神学・政治論』は、聖書の研究にかぎらず、宗教的なテクストを読もうとするすべての人にとって必読の書であるといえよう。なお、長らく読まれてきた畠中訳の他に、近年吉田量彦訳(光文社古典新訳文庫、2014年)も出版されており、新たな息吹に満ちた新訳を読んでみるのも面白いだろう。

⑨ レッシング(篠田英雄訳)『賢人ナータン』岩波文庫、1958年
 18世紀ドイツ啓蒙主義を代表する作家レッシングによる戯曲。検閲によって他宗派・他宗教の意見を封殺する当時のドイツ・プロテスタント社会を「ヨーロッパで最も奴隷的な国」と批判するレッシングが、宗教的寛容を訴えるべく執筆した作品である。劇の舞台は十字軍とイスラーム王朝の戦争により猖獗をきわめる中世のエルサレムであり、主人公のユダヤ人商人ナータンをはじめ、キリスト教世界とイスラーム世界の衝突に翻弄される人々が言葉をかわしていく。三つの一神教の平和的共存を願う「三つの指輪のたとえ話」など、本劇は宗教間の愛や家族の愛を主題とするものだが、自身の善良さを信じて疑わず、人の意見に耳を貸そうとしない当時のドイツ社会の姿を作中のある登場人物に投影させるなど、レッシングの冷徹な目が随所に隠れており、何度読みなおしても味わい深い。

⑩ ジョン・ロック(加藤節・李静和訳)『寛容についての手紙』岩波文庫、2018年
ヴォルテール(中川信訳)『寛容論』中公文庫、2011年
 レッシング同様、17~18世紀のヨーロッパにおける代表的な寛容思想の作品。ロックの作品はオランダのプロテスタントに宛てた書簡、そのロックに啓発されたヴォルテールの作品は広く市民をその読者に想定したエッセイとして書かれた点も特徴的である。前述の『賢人ナータン』もそうだが、当時のヨーロッパにおける思想的課題としての「寛容」は、各国での宗教的な差別や迫害が激化する現実に応答するものであり、宗教のレベルでの寛容を実現することを目的としたものである。それに対しては、「宗教的に寛容であれば、人は他者とわかりあえるのか」「寛容の問題を宗教に限定するのは、視野の狭窄につながるのではないか」という批判もあってしかるべきだろう。寛容思想の古典を読みなおすことの現代的な意義があるとすれば、それは宗教的寛容をさらなる思考のためのひとつの突破口とすることである。そこには、宗教についての学びを、さらに広く開いていくという宗教学のあり方と通奏するものがあると思われる。