2020年8月22日土曜日

神戸・ユダヤ文化研究会2020年第1回文化講座

神戸・ユダヤ文化研究会

2020年第1回文化講座(オンライン開催)

■日時:2020年9月12日(土)

13:00~14:45 講演①+質疑応答

15:00~16:45 講演②+質疑応答

17:00~17:55 全体討論

18:00~21:00 懇親会

 

■参加方法:オンライン(参加費は無料)

神戸・ユダヤ文化研究会ホームページを確認のこと

http://jjsk.jp/event/2020/08/21/2020-0/


■文化講座

①講演:「戦時上海のユダヤ人を救ったのは日本だったのか」

講師 :関根真保(立命館大学プロジェクト研究員、本会会員)

講演要旨:

ナチスの迫害から戦時上海に逃れてきたユダヤ人は2万人近くいた。日本が統治下の上海に彼らを受け入れ、方針として反ユダヤ主義をとらなかったことが、彼らをホロコーストから救ったとも言われている。さらに中国が自国の歴史の中で、上海ユダヤ人の足跡を振り返る際にも、「戦時上海のユダヤ人を救ったのは、中国ではなく日本だった」という主張が日本でなされてさえいる。

本講座はまず、「戦時上海のユダヤ人を救ったのは日本である」とする通説が定着するまでの過程を検証する。そして、上海ユダヤ人の歴史は、比較的自由を享受できた「リトル・ウィーン期」と、もっとも困難な生活を強いられた「上海ゲットー期」の二期に分けられることを提唱する。それによって今回のテーマに関する客観的な判断を促したいと考える。


②講演:「ハンナ・アーレントとニューヨーク知識人の邂逅――冷戦期アメリカにおける全体主義論」

講師:大形 綾(京都大学博士後期課程)

講演要旨:

本発表の目的は、戦中・戦後のアメリカ社会の変容を背景に、ハンナ・アーレントとアメリカのユダヤ系知識人の結びつきを考察することです。とりわけ、『全体主義の起原』の成功が、ニューヨークで活躍したユダヤ系知識人たちの社会進出を支えていたことを明らかにします。


詳細は神戸・ユダヤ文化研究会ホームページにて

http://jjsk.jp/event/2020/08/21/2020-0/

2020年8月21日金曜日

日本ユダヤ学会2020年第17回学術大会発表者募集

 日本ユダヤ学会2020年第17回学術大会

発表者募集

2020年11月15日(日)に第17回学術大会を開催いたします。

*今回はzoomによるオンラインでの大会となります。


発表ご希望の方は、仮題と200字程度の要旨を9月30日(水)までにayaka.takei(アットマーク)gakushuin.ac.jp(武井)宛にメールで送るか(件名に「学術大会発表希望」と記してください)、学会事務局宛にハガキで郵送してください。

発表時間は発表者数によりますが、25分~30分の予定です。発表をお願いするかどうかの決定は理事会にご一任いただき、結果は10月10日までにお知らせいたします。

非会員の方も会員のご紹介があれば発表できますので、お心当たりの方がいらっしゃればお声をかけてくださるようお願いいたします。

学会ホームページ
https://jewishstudiesjp.org/2020/08/21/annual_conference_2020/

2020年8月9日日曜日

京都ユダヤ思想学会第13回学術大会公開シンポジウム「中世ユダヤ教聖書解釈の諸相」

京都ユダヤ思想学会第13回学術大会(オンライン)

公開シンポジウム

「中世ユダヤ教聖書解釈の諸相 —キリスト教世界とその周辺—」

今年のシンポジウムでは、キリスト教世界の文化と対峙する中世ユダヤ教におけるさまざまな聖書解釈の営みに注目し、五名の登壇者による提題をおこない、みなさまとともに議論を進めていきたいと考えております。聖書学習や宗教論争、典礼詩やユダヤ教思想など、その聖書解釈の機会は多岐にわたり、そのつど聖書の言葉はユダヤ教世界に新たな息吹をもたらしてきました。シンポジウムでは大澤耕史会員による司会のもと、手島勲矢会員、加藤哲平会員、志田に加えて、勝又直也氏(京都大学)と李美奈氏(東京大学大学院)をお招きし、それぞれの専門分野から五つの提題をおこないます。その後、参加者のみなさまとの全体討議によって論点を明らかにし、彩り豊かなユダヤ教聖書解釈の諸相をともに描いていきたいと思っております。ご参加をお待ちしております。       

日時:2020年9月13日(日)

会場:オンライン(Zoom)

参加方法:学会ホームページあるいはポスターを参照のこと

学会ホームページはこちら

■大会プログラム 

9:15 Zoom受付開始

【個人研究発表】 (9:30−11:30)

9:30-10:10 研究発表① 司会:平岡 光太郎(同志社大学嘱託講師)

発表者:菅野 賢治(東京理科大学教授) 

 「上海無国籍避難民指定居住区の運営実態―實吉敏郎海軍大佐の未発表文書をもとに―」

10:10-10:50  研究発表② 司会:渡名喜 庸哲(立教大学准教授)

発表者:吉野 斉志(京都大学非常勤研究員)  

「パトナムとベルクソンの時間論 ―相対性理論をめぐって―」

10:50-11:30  研究発表③ 司会:後藤 正英(佐賀大学准教授)

発表者:福山 弘泰(京都ユダヤ思想学会会員)

「ラヴ・アブラハム・イツハク・ハ=コーヘン・クック研究における『八文集』(שמונה קבצים)の意義について」

 11:30−13:00   休憩


【シンポジウム】 13:00-17:00

「中世ユダヤ教聖書解釈の諸相:キリスト教世界とその周辺」

 司会:大澤耕史(中京大学助教)


13:00−15:30  提題   

 提題① 志田雅宏(東京大学講師)

「聖書解釈の広がりと深み ——中世キリスト教文化との対話のなかで——」           

 本報告では、中世キリスト教世界におけるユダヤ人のさまざまな聖書解釈の営みを取り上げる。ユダヤ人とキリスト教徒は、ときに聖書の正しい意味をめぐってキリスト教徒たちと論争をおこない、ときに聖書の「ヘブライ的真理」(Hebraica Veritas)を求める知的探究のなかでともに聖書テクストを学んだ。また、聖書に描かれた族長たちの物語や預言は、ユダヤ人にとって、ときにキリスト教世界の起源や運命についてほのめかすものであり、ときに彼ら自身が体験した迫害や暴力を乗り越えていくための慰めを与えるものでもあった。また、キリスト教世界のユダヤ知識人や思想家たちは、聖書テクストの深みへと潜っていき、カバラーや哲学の思索を存分に展開した。そうした思想は、聖書の言葉に新たな光を当てるだけでなく、ユダヤ教の日常的な宗教実践のひとつひとつに生き生きとした風を吹き込むものでもあった。
 本報告の目的は、キリスト教世界のユダヤ教聖書解釈というテーマの導入として、全体の枠組みとなるものを提供することである。キリスト教徒たちの社会において、ユダヤ人は「共生と対抗」という生のあり方を自分たちに課した。ラビ・ユダヤ教の教典タルムードにはしばしば強烈な反キリスト教的言説がみられるが、中世のユダヤ人法学者たちはそれを同時代の現実に合わせて解釈しなおし、共生の道を切り拓いた。その一方で、民衆による暴動や宗教論争に巻き込まれたときには、ユダヤ人はキリスト教文化への対抗によって、自分たちのアイデンティティと生命を守らなければならなかった。この「共生と対抗」という生のなかで、聖書を読むという営みもまた、きわめて大きな意義を持ったのである。
 報告では、中世キリスト教世界のさまざまなユダヤ人学者・思想家たち——ラシやヤコブ・ベン・ルーベン、ナフマニデス、ハスダイ・クレスカスらとなるであろう——のテクストを手がかりに、彼らの聖書解釈の営みにみられるキリスト教文化との対話の作法を明らかにしていきたい。


提題② 勝又直也(京都大学准教授)

「ピユートにおける聖書解釈」

 ピユートとは、安息日や祭日におけるシナゴーグでの礼拝の際に詠まれるヘブライ語の典礼詩であり、古代末期から中世にかけて、中東やヨーロッパのユダヤ共同体において、パイタンと呼ばれる典礼詩人らによって盛んに創作されてきた文学ジャンルである。イェシヴァーでのタルムードの学びを中心とするラビ・ユダヤ教の伝統では、シナゴーグにやってくる大衆に向けて詠われたピユートは、必ずしも権威のある文学ジャンルとはみなされていなかった(ピユート、パイタンという言葉自体が、ポイエテースというギリシャ語からの借用語であることから、ラビの側からの蔑称である可能性もある)。しかし、19世紀末のカイロ・ゲニザ文書の発見からもわかるように、当時のユダヤ共同体においては、いわゆるラビ文献の範疇にとどまらない、柔軟で活発な創作活動が数多く行われており、ピユートはその重要な構成要素であったのだ。
 ピユートは、アミダーやクリヤット・シェマといった、ユダヤ教における義務の祈りの枠組みの中で謡われることから、扱わなければならない内容があらかじめ決められている。例えば、クリヤット・シェマの祈りの中で謡われたヨツェルというジャンルの詩の第二ピユートでは、天使について言及しなければならない。それと同時に、パイタンは、そのピユートが詠われる日の特殊性も詩の中に入れようとした。それは他でもない、毎週の安息日や祭日において朗読されるトーラー(モーセ五書)やハフタラー(預言書など)の箇所である。古代末期のパレスチナでは、トーラーをセデルと呼ばれる部分に細かく分け、3年半ほどで読み終えたが、後にはバビロニアの伝統が支配的になり、トーラーをパラシャーと呼ばれるより大きな部分に分け、一年間で読み終えた。例えば、アミダーの祈りの中で謡われたクドゥシュタというジャンルの詩においては、第一ピユートと第二ピユートでその週のパラシャーが、第三ピユートでその週のハフタラーが引用されている。
 このように、ピユートとは、1)祈りの枠組みで要求される内容と、2)トーラーやハフタラー朗読の内容とを大胆に融合させる試みであり、一般のユダヤ人に向けて毎週提供された、新鮮で大衆的な(時に娯楽としての)聖書解釈という側面がある。さらに、時代や場所に応じて、3)ビザンツ、イスラーム、キリスト教といったマジョリティ文化の影響も垣間見ることもできる。本報告では、ゲニザ写本の解読に基づいたテキストを具体例として用いながら、1)~3)のダイナミックな関係性について紹介したい。


提題③ 加藤哲平(日本学術振興会特別研究員)

「迷える者たちの翻訳者 ——中世ユダヤ教聖書解釈におけるヒエロニュムス——」

 中世のユダヤ教聖書解釈者たちがキリスト教徒と宗教論争をするに際し、切り崩すべき牙城は「ウルガータ聖書」に他ならなかった。ウルガータ聖書とは、古代末期のラテン教父ヒエロニュムスによる翻訳を基礎として成立したキリスト教会のラテン語訳聖書のことである。アドリア海近くで生まれ、長じてはローマに遊んだヒエロニュムスは、回心体験を経て東方諸国を遍歴したあと、遂にはベツレヘムで聖書研究に挺身し、膨大な聖書注解書をものす傍ら、古ラテン語訳福音書の改訂とヘブライ語原典に基づく旧約聖書の翻訳を完成させた。ヒエロニュムスの死後、「普及版(ウルガータ・エディツィオ)」と呼ばれるようになったこの翻訳聖書は、中世を通じてキリスト教会の聖典として大きな権威を持つようになった。こうした権威に基づき、中世のキリスト教徒たちは聖書に関してユダヤ教徒と論争する場合、このラテン語訳聖書の記述をしばしば引き合いに出した。これに対しユダヤ側は、その翻訳を吟味して誤りを指摘することで、論争相手に対するこの上なく強力な反論材料を見出そうとしたのだった。本発表では、ウルガータ聖書やヒエロニュムスに言及している中世のユダヤ教聖書解釈者たちを取り上げ、彼の翻訳や解釈をどのように論争に利用したかを検証する。具体的には、ラシュバム、アブラハム・イブン・エズラ、ダヴィッド・キムヒ、ナフマニデス、著者未詳の『セフェル・ニツァホン・ヤシャン』、ヨセフ・アルボ、イツハク・アバルバネル、エリアス・レヴィタ、アザリヤ・デイ・ロッシ、トロキのイツハク・ベン・アブラハムらの著作を扱う。彼らは、一方では、ヒエロニュムスをキリスト教の代表者、すなわち「迷える者たちの翻訳者」と呼んで蔑み、その翻訳や解釈の誤りを取り上げて激しく攻撃した。しかし他方では、彼のユダヤ教聖書解釈への造詣の深さを称えつつ、彼をあたかもユダヤ教の代表者であるかのように見なすことで、むしろその主張に耳を貸そうとしない他のキリスト者たちを批判することもあった。発表の中では、フィロンやアウグスティヌスなど、ヒエロニュムス以外のギリシア・ラテン世界の聖書研究に関する釈義家たちの言及についても紹介したい。


提題④ 手島勲矢(関西大学非常勤講師)

「マソラー再評価をめぐる16-17世紀の聖書理解の新展開」

 16世紀にはフマニスムスと宗教改革の二つの精神の顔がある。その二つの知的な潮流が17世紀に向けて一つの大きな流れ、とりわけ聖書解釈の意識変化となって、ルターの「聖書のみ」のスローガンを生み、それまでの社会や文化の価値観を根底から覆すことになるのだが、その世界観の変化は、キリスト教会内だけに限定されるものではなく、ユダヤ教社会にも影響が及んでいて、事実、『メオール・エイナイム』(1573年)の著者アザリア・デ・ロッシは教会の聖書(七十人訳)についてヘブライ語で同胞たちにも紹介するーその事実にユダヤ教徒とキリスト教徒の距離の近さは確認される。
 このような16世紀の聖書解釈の意識変化を後押ししたものの一つが、ダニエル・ボンベルグによるユダヤ・ヘブライ書籍の出版事業である。そのヴェネチアでなされた出版事業は、まさにフマニスムスと宗教改革の精神を両方合わせたような事業であり、とりわけヤコブ・ベン・ハイムのラビ聖書(1525年)は、マソラーの伝統の厚みを広くヨーロッパのキリスト教徒に知らしめる一方で、ユダヤ人読者も数字の章立てなど教会の聖書伝統をはじめて意識させられることになる。またエリヤ・レヴィータのヘブライ語文法及びマソラー入門書『マソレット・ハマソレット』(1538年)は、キリスト教徒が関心を持つユダヤ教の母音記号とアクセント記号のモーセ起源に対する考察も行っていて、それは、ある意味、ヘブライ語で書かれた初めてのマソラー批判の萌芽といえる。その後、アザリア・デ・ロッシは、そのレヴィータの見解に対して、ラビの聖書解釈とは一致しないマソラーのアクセント伝統の側面に注目して、歴史的な思考の反論を試みている。
 なぜこのようなマソラー批判がこの時期にユダヤ教側に生まれたのかの説明として、エリヤ・レヴィータ、アザリア・デ・ロッシ、またヤコブ・ベン・ハイム、いずれもユダヤ教徒とキリスト教徒の両方に共有されるべき、歴史知見を土台にした新しい聖書理解を模索していた点は注目に値する。三人が始めた歴史としてのマソラーの理解は、ある意味で、それまでのユダヤの解釈伝統への挑戦でもあって、したがって、それぞれの文脈の中で同胞からの厳しい批判にもさらされる。このような16世紀のユダヤ学者の聖書理解は、それ以前の理解と比べて何か違うのか?新しい印刷時代の聖書解釈のニューノーマルの輪郭を考えてみたい。


提題⑤ 李美奈(東京大学大学院博士課程)

「宗教改革とヴェネツィアのユダヤ人 ——レオネ・モデナの聖書解釈——」

 近世イタリアでは、宗教改革の波が押し寄せるなかで、伝統的なキリスト教の権威が激しく揺さぶられた。それと同時に、キリスト教徒の学者たちのあいだでユダヤ教への関心が高まり、ヘブライ語やヘブライ語聖書テクスト、ユダヤ教思想を学ぶヘブライストたちが現れた。彼らはユダヤ教のなかに、同時代のキリスト教から失われてしまった本来の教えが守られていると考えたのである。そして、こうしたキリスト教世界の変化は、同時代のイタリアにおけるユダヤ教の聖書解釈にも影響をおよぼした。本報告では、その重要な事例として、17世紀のヴェネツィアのラビ、レオネ・モデナによるキリスト教反駁書『盾と剣』(Magen ve-Herev)を取り上げてみたい。本作品において、モデナはキリスト教の諸教義の誤りを指摘すべく聖書解釈を展開するが、その方法は、ユダヤ教の伝統を引き継ぎつつも、同時代のキリスト教世界の知的関心を反映したものであった。
 モデナは主に、聖書を理性的に読むことを主張する。この場合の理性は科学的な思考というよりももっと素朴なもので、一般人にも想像が可能なことである。比喩的な解釈や難解な哲学的思考を通さずに理解できなければ信仰に誤りが生じるとする彼の主張は、聖職者を通した聖書理解ではなく直接一般信者が聖書を読み理解することを目指した宗教改革者たちの信念に通じるものがある。他方で、カバラーを通してキリスト教の真理を発見しようとするクリスチャン・ヘブライストらに反して、モデナ自身は神秘的な解釈も否定し、あくまで字義的な読み方にこだわる。カバラー支持者はゲマトリアなどを利用して聖書の本文からは隠れた「本来的な」解釈を引き出そうと試みたが、モデナの目には、その方法はラビ・ユダヤ教の伝統を脅かす危険性を孕むものと映ったからである。
 さらにモデナは、原罪や三位一体に反論する際に、パオロ・サルピやピエトロ・ガラティノらキリスト教神学者による論争を根拠として引用する。モデナは、ユダヤ教から本来の教えを引き出そうとするヘブライストらの動きに同調し、自ら積極的に関わっているように思われる。ただし、クリスチャン・ヘブライストが、ユダヤ教をキリスト教の原型として位置づけ、キリスト教の「本来の」姿をそこに見出そうとするのに対して、モデナはその「ユダヤ教的な」原型とその後のキリスト教のあいだの乖離を強調する。モデナはイエスの奇跡や言行を否定せず、むしろ福音書を熱心なユダヤ教指導者の記録と捉え、その記述がキリスト教教義と離れていることを示す。
 モデナがキリスト教への反論として聖書を読むとき、彼の念頭に置かれていたのは、同時代のキリスト教世界の改革者たちのユダヤ教観であった。改革者たちは、教会批判と結びつくかたちで、ユダヤ教をキリスト教の源泉として再評価し、二つの宗教を接近させることを試みた。モデナは彼らの知的関心に影響を受けつつも、むしろそこからキリスト教への批判を展開し、聖書解釈を通じて、ユダヤ教とキリスト教の間に新たな境界線を引く作業を行なったと言えよう。 


15:40-17:00   質疑応答

(シンポジウム企画担当:志田雅宏)