2018年1月14日日曜日

宗教史学研究所第66回研究会

宗教史学研究所
第66回研究会

日時: 2018 年 1 月 20 日(土) 13:00-18:00
場所: 東洋英和女学院大学大学院201 教室
(港区六本木 5-14-40、国際文化会館向かい側)、

プログラム

12:30 受付開始
13:00-14:30
 発表1 土井 裕人(筑波大学人文社会系助教)
「プロクロスにおける「媒介するモノ」としての魂の乗り物」
<概要>
「媒介するモノ」について考える場合、「モノ」と「モノならざるもの」をめぐって長く探究を続けてきた西洋哲学に目を向ける意味があるのは言を俟たないだろう。とりわけプラトンやその系譜に属する思想において、知的対象たるモノならざるものと感覚対象たるモノとの架橋がいかになされるかは、極めて重要な問題として長年議論されてきた。
本発表が取り上げる西洋古代哲学末期の新プラトン主義者プロクロス(412-485)において、こうした問題について興味深い一局面を見ることができる。イアンブリコス(245-325)以降の新プラトン主義においてはプラトン以来の「神に似ること」というテーマの宗教的実践が具体化していくが、その際に問題になったのが物体と非物体の境界にあって両者をつなぐ「魂の乗り物」である。実はこれはキリスト教思想において有名な「プネウマ」(新プラトン主義の文脈では「霊」の意味ではなく古代ギリシア語の原義に即した「気息」)でもあり、拙稿「西洋古代の宗教思想と「スピリチュアリティ」の問題」(鶴岡賀雄・深澤英隆(編)『スピリチュアリティの宗教史』下巻、2012 年に収録)でも取り上げている。
本発表では、この魂の乗り物について「媒介するモノ」として再考を試みる。特に、諸天体を視野に入れた「祈り」とそれによる浄化という具体的な諸実践が、「媒介するモノ」としての魂の乗り物に焦点を結んでいくことに注目してみたい。

14:30-14:40 休憩

14:40-16:10
発表2 藤原 達也(東洋英和女学院大学非常勤講師)
「祇園精舎の図像学―buddhabhâva「ブッダの存在」の媒介としての仏像と仏寺空間」
<概要>
2015 年 J. クリブの古銭学論文により最古の仏像はビーマラーン舎利容器のそれとほぼ確定したが、クリブ自身は気づいていない。2012 年の拙稿は最初期仏像が「従三十三天降下」場面で宝階の上に立つ仏陀の姿であったはずだと論じたが、まさしくビーマラーンの仏像がそうであり、仏像誕生の原理に関する見解を再 提示したい。ガンダーラではまた、仏塔や仏像を擁する僧たちの居住空間としての仏寺も誕生した。それら仏寺が祇園精舎を理念モデルとして造られたという発表者の仮説にとり、近年公刊カナガナハッリの無仏像時代の仏教図像群は大きな援けとなる。誕生時の仏像が「祇園」のどの「精舎」に置かれたのかを手掛りに、仏典の言う「ブッダの存在」の媒介としての仏像と仏寺を考える。

16:10-16:20 参加者自己紹介

16:20-16:30 休憩

16:30-18:00
発表3 津城 寛文(筑波大学教授)
「和歌の宗教学―2つのポリティックスと2つのメディテーション」
<概要>
「和歌は真言陀羅尼」という名言は、室町時代の僧・心敬が、「仏道歌道一如」「歌道はひとへに禅定修行の道」「和歌は隠遁の源、菩提をすすむる直路」など、先人のさまざまな歌論をとりまとめた上で、「本より歌道は我が国の陀羅尼なり」と断言したもののスローガン化である。さらに早くは俊成が「天台小止観」に基づく「空仮中」の三諦の思想によって、和歌の「形而上学的なストラクチャ」を定式化したことが、歌人による最初の「仏道・歌道一如」の自覚として指摘される。またのちの茶=禅の達人は、「茶の本心」「無一物の境界」を、これらの「歌の心」と等しいものと考えた。しかし、「歌の心」が、禅的な境地だけに限られるわけではない。折口信夫・釈迢空の歌論は鎮魂説に基づいており、それによれば「万葉集は鎮魂歌集」とされる。しかしこの「鎮魂」には、古代的な言霊思想によるものと、「瞑想的」等々といわれる、かなり異質な二つの意味がある。ここでは和歌を、(一)政治的儀礼、(二)政治的呪術、(三)瞑想的自然観照、(四)仏教的真理実践、(五)詩学プロパーの 5 つに、論じ分けてみたい。